創作として軸がぶれている

ドラシティを制作するとき、一番ズレてはいけない軸、守らなきゃいけない核の部分、それは「香港アクション映画をみんなで撮影する」ということ。

なぜ「香港アクション映画」なのか?
行為判定のテンポのいいコンボのシステムが、香港アクションや格闘ゲームの雰囲気にちょうどいいと思ったから。

では「香港アクション映画」とはなにか?
ワイヤーアクションの多用。
キレのある伝統武術によるアクションと勧善懲悪のシンプルなストーリーライン。
ジョン・ウー作品なら二丁拳銃と鳩、といったところか。
代表的な作品をリストアップして、香港映画の最大公約数的な要素を抜き出すことは、たぶんそこまで難しくない。

それでは、なぜ香港で「香港映画」が作られるようになったのか?
香港映画が生み出された、その土地柄というか背景というか、そういうものがあるのだろうか?
ドラシティの舞台設定を作るにあたって、そういった「香港映画が生み出された素地」というものを持ってこなくてはいけないのではないか、最近はそういうことを考えている。

なんかのドキュメンタリーで見たことだが、ナイジェリアの映画産業はすごいことになっているらしい。
ナイジェリアのノリウッド映画が世界第3位だとかいやもう第1位だとかニュースでやっていた。ソースは見失った。


ハリウッドにしろ、香港にしろ、ムンバイにしろ、ナイジェリアにしろ、その地だからこそ映画産業が花開いたという共通の要因はなにかあるのだろうか?


そのこととは別においといて、もともとドラシティはメタ視点の色が強い。
アンケートにも「協力して映画を撮ってるみたい」と書いてもらったことがある。
技能グループにも<撮影>なんてものがあるくらいだしね。