傾け撃ちと門松の美学

とくに意味もなくどら焼き

香港ノワールの黄金率に関する話
森博嗣氏の「すべてがFになる」シリーズ*1に書かれていたこと(毎度のこと、どの作品だったかはよく覚えていない)。
門松は、なぜ竹の長さが3本とも違うのか?
それは「あえてバランスを崩す」という美的センス覚に由来するという。
同じ長さにすることもできる、だがあえてしない。
左右対称にすることもできる、だがあえてしない。
完全を、完成を、調和を、求めることもできた、だがあえてそこから離す。あえて崩す。
違い棚などもあるように、茶道やわびさびには「あえて完成から壊す」という思想が底辺にあるという。
"あえて壊す"という点ではダダイズムに通ずるものもあるかもしれない。

つまり"傾け撃ち"は、「わびさび」なのだ。日本人の心に響くのだ。和的なのだ。大和魂なのだ。

銃を傾けて撃つのはなぜか?それはかっこいいから。
まっすぐ狙って撃つこともできる、だがあえて傾ける。
腕をクロスさせて撃つのはなぜか?それは美しいから。
同じ二丁拳銃でも腕を真っ直ぐにして脇をしめて撃ったほうが精度が上がるような気がするが、だがあえて腕をクロスする。

まあそういうことです。

*1:聞いたところによると、"S&Mシリーズ"という呼称があるらしい。ほかにもっといい呼び方がなかったものか。