センスが理解できるかどうか、価値観を共有できるか

以前、"TERA the GUNSRINGER"の批評でこんなことが書かれていた。

「TERAはちゃんとした西部劇を遊べない。暴走列車が出てきた時点で、そこで話が破綻してしまう。」

この話を始めて聞いたとき、さっぱり理解できなかった。
"何を意図した発言なんだ?"
私なんかは単純にこんな風に考えてしまう。

「暴走列車の進路の前にさすらいのガンマンが立って、愛と希望のこもった魂の弾丸を一発うてば、それで列車の一つや二つ止まるんじゃねーの。」
FEARのゲームは大なり小なりこんなノリだろう。
かといってこんなことを前述の発言の人に語ったところでトーテー理解はされないだろう。

つまり、こういう感覚を、PLとGMで分かち合うことができないと、楽しいセッションを過ごすことができないんだろう。

TRPGをプレイするとき、システム本来の主題を把握し、そのイメージを参加者達が共有きるかどうか、というのは重要。
一方、それ以前に(システムの理解度以前に)、メンバー間で価値観を共有できるかどうかも重要(その共感価値がシステム本来の意図に沿わなくたっていい)。
それがセッションの成功につながるのだろう。
システムのルールを絶対遵守で運用しなくても、楽しいセッションはあるものだ。