ストーリーをプレイするのかドラマを作るのか
先月今月のRole&Rollの『ファイヤード』の記事を読んで「なんか違うんだよなぁ」という感想を抱いた。いろいろ考えて、ようやく文章にできたのでそれをここに載せる。ちなみに『ファイヤード』はまだ手にしていないので見当外れな批評になるかもしれないが、『ファイヤード』を非難する意図はない。どちらかというと私のT-RPG哲学にかかわることを書くことになるだろう。
先月のRole&Rollの『ファイヤード』の記事の中にこんなことが書いてあったと思う。(手元にないので的外れなことを書いてたらゴメン)
「PCがどれだけストーリーに関わっていくかでより活躍していく」とかナントカ。
まずこの「ストーリー」という単語の使い方からして自分定義と違うんだよなぁ。
シナリオとストーリーの違いとは何か。
シナリオはGMが準備するデータの集合。
ストーリーとはドラマの連続であり、ドラマもストーリーもGMやPLとで作り上げていくもの。
ここでいう"ドラマ"とはなにも「よくできたお話」だけを指すのではない。
HP残り少ない戦士がクリティカルを出して残りの敵を倒した、これだけでも"ドラマ"である。もっといえば、GMがバランスを間違えて、一方的にフルボッコした、これもまたドラマだ。セッションの中で印象に残った出来事はドラマとなりうる。そう、キーワードは"印象に残る"だ。
何をもってセッションの成功失敗を決めるかは難しいところで、T-RPGの永遠のテーマかもしれないが、そのひとつとして"印象に残る"ことは重要な要素となるだろう。
逆にいえば、シナリオのアウトラインが"お話"としてよくできていたとしても、"印象に残る"ものでなかったら成功とは言いがたいだろう(かといって失敗と断定することもできないのがT-RPGの難しいところだ)。
かといって話の筋を軽視するものでもない。
GMがアウトラインを無視してシナリオを作ったら、つじつまの合わない支離滅裂なシナリオになるだろう。そのセッションがいくら"印象に残る"ものであっても、それは成功したセッションとはよべないだろう。
そもそも物語構造論的にいって、よいお話はある程度のパターンが存在するからだ。
とくにコンベンションでは、大きな成功を残すことよりも、より少ない失敗の方が重要だ。
とにかく、シナリオとは境界条件であるべき、と私は考える。いかにシナリオが"小説にでも書き上げたらさぞ面白いんだろうな"と思えても、PLがドラマを生み出さなかったらそれはよいセッションではない。
話は次にうつる。
『ファイヤード』ではシーン毎に「推奨行動」というものがGMからPLに示されるらしい。
ここも私のT-RPG哲学からして引っかかる点。
いや、本当に「推奨行動」があくまで「推奨」で、PLが自分で考えた行動も採用してくれるのなら不満はない。ただ、読んでいるとどうも「推奨行動」以外の選択肢がないように思える。
この「推奨行動」も一概に悪いこととはいえない。
GMが状況をPLに説明して、そのあとどう動くかは完全にPLまかせ、というのも考えものだ。
時間に余裕のあるホームセッションならともかく、時間に制約のコンベンションでは難しい問題を引き起こしかねない。
PL達が「なんだろう、なんだろう」「どうしよう、どうしよう」と行き詰ってしまう(その実なにも行き詰っていない)、そんなことになるくらいなら、さっさとGM側からその場面でとりうる一般的な反応を指し示すのはよい手法かもしれない。
ただそれでも、と思う。
「推奨行動」の選択肢が少なすぎやしないか、と。
能力値(でいいのか?)が3つだから、「推奨行動」の数も2〜3個なるのだろうけど。
これが、能力値が6個くらいで「推奨行動」の数も2〜3個くらいでいいから(GMの負担も考えて)、残りの能力を使った行動もPL同士で提案しあいGM判断で採用する、とかならいいんだがなあ、なんて思う。